松代
午札
うまふだ
騒動
松代藩 済急手形 金一分
105×37mm
表文:支配所済急 金壱分手形 午三月限
下部の印は、「松代藩計政局之證印」
「午」は明治3年のこと
信州松代藩は、真田十勇士で有名な真田信繁(幸村)の兄信之を藩祖とする真田氏10万石の中堅の藩。
天保12年(1841)には、佐久間象山をブレーンとした藩主真田幸貫が、外様大名では異例の老中になっています。
生糸や蚕種の産業が盛んでしたが、藩財政は決して豊かではありませんでした。 しかも戊辰戦争には、越後・会津に積極的に参戦し、家計は火の車でした。
そんな折、同じ信濃の伊那谷で発生した偽二分金が松代でも蔓延し、藩ではその対策として、明治2年4月、「済急手形」を発行しました。
また、藩財政を立て直すべく、「松代商法社」を設立し、生糸・蚕種の輸出を計画し、藩札とは別に商法社の手形を発行しました。 しかし、国際的な生糸相場は大暴落。 商法社の手形は、まったく裏付けのないものとなりました。 商法社の頭取は売れ残った蚕種を持って、イタリアに逃げたとの話もあります。
明治3年11月、藩当局は、これら二つの手形を正価(太政官札)の2割5分引の交換レートとしました。
領民は大困窮しました。 11月25日、更級郡山田村の農民、小平甚右衛門をリーダーをする農民数千人が松代に強訴しました。 済急手形の「午三月限」の文字と、商法社札に馬の絵(ほんとうは麒麟の絵)が描かれていたことから、
「午札(うまふだ、うまのさつ)騒動」
と呼ばれています。
翌明治4年3月に、騒動は政府により鎮圧され、関係者は処分されました。 知藩事の真田幸民は解任され、真田家の300年近い治世は終了しました。 首謀者の甚右衛門は処刑されました。 商法社は解散させられました。
甚右衛門の墓地の一角には、「大衆のために生命を捧げ得る者は士なり」の顕彰墓碑があるそうです。
2023.3.4